テニス競技生活
13年間の波瀾万丈物語
この記事にたどり着いたあなた。
私のプロフィールに興味を持って頂き
ありがとうございます。
テニスがとても好きなのか
はたまた、私のファンになってくれた方
なのか、、、笑
今回の記事は私のテニス選手として
過ごして来た学生時代の13年間を
赤裸々に語っています。
私の大卒までのテニス人生の部分を
ひたすら語っているだけの
文章なので
本当に読みたい方だけ
見てくださいね!
それではどうぞっ!👇
テニスへの目覚め
小学校2年生から
当時ジャンプアニメだった、
「テニスの王子様」の影響で
テニスをはじめました。
その当時は身体がとても弱く、
すぐに風邪を引くし
重度のアレルギーは持っているし
喘息は抱えているしで
とても貧弱な子供でした。
特に秋はアレルギーが酷く
運動会やマラソン大会には
出られない時もありました。
私はそれほど身体が弱かったのです、、、
父も私と同時にテニスを始め、
最初は土日に運動公園で
壁打ちをする程度だったのですが、
徐々に熱が入り出していき、
半年後に近くで有名だった
テニスクラブに入会することにしました。
そこから私の本格的な
テニス人生が
始まって行ったのです!
初めての県大会優勝
私は冒頭でお話しした通り、
とても身体が弱く
尚且つ運動神経も悪く
運動が出来る子ではありませんでした。
ただ、『ボールを打つ』
という感覚は持っていたようで
よくコーチにはセンスはあるのに
勿体無いと言われていました(笑)
そして父のテニス熱が
入り出したのも
ちょうどその頃からだったと思います。
『どうせやるなら全日本だ!』
そう言われたのを覚えています笑
学校から帰って
すぐにランドセルを置き、
テニスクラブに直行し、
17時30分から21時頃までの
練習を週5で始めました。
レッスンのない平日2日間は
父と近くのテニスコートで特訓でした。
ひたすらボール出しの練習3時間と、
“足がとてつも無く遅かった”私は
ひたすらランニングを
させられていました。
そして、土日の朝は6時に起きて
山ランをするというルールでした。
(父考案、その山ランは高3まで続く)
200メートルほどの低山で
3つの山を走って
登り下りするだけです。
大体1時間ほどなのですが、その後にもう一つ
『坂道ダッシュ』なる物がありました。
これが本当にキツかったんです笑、、、
立ち漕ぎしても絶対登れないような坂を
5本ダッシュするのですが
25秒以内でないと
本数が減らないのです。
坂の上に父が立っており
腕を振り下ろすと
スタートの合図でした。
本当に下の写真のような坂です。
↓
おそらく6、70メートルは
あったと思います。
そんな練習とトレーニングの
成果あってか、5年生の時に
初めて
県大会優勝をすることができました。
『こんなけやってるんだから
県大会優勝くらいしないと
納得がいかない』と思って
試合に挑んだので
緊張とかはなかったのを覚えています。
それは当然優勝すると思います笑
突然の離婚
ちょうど小5で
県大会を優勝した頃です。
正直、私の両親は
私が低学年の時からあまり仲が良くなく、
いい関係ではなくなっていました。
1人息子の私はそれが嫌でした。
そして、離婚するとなった時
私はこの先もテニスをやりたかったので
収入の問題もあり
父の方についていき、そこからは
父子家庭で過ごすことになりました。
まだ小5だったので
当時はなかなかのダメージでした。
グレないようになんとか自分を律して
テニスに熱中する様に
自分からしていきました。
良い意味でこの事がきっかけとなり
周囲との『劣等感』を
感じる事ができたので
テニスで成功して自分は将来
幸せな家族を作るんだ!
絶対成功するんだ!と心に決めました。
そのあたりからだったと思います。
どんどんテニスに熱中していったのは。
やればやるほど
試合にも勝てるようになったので、
その劣等感を
払拭するという意味でも
勝ちにとことん
こだわるようにもなっていきました。
全国大会1回戦突破
小学校6年生になると
さらに強い選手のいる
テニスクラブに移りました。
そこには1つ下で
全日本優勝の子がいました。
そして新しく入ったクラブは
全国出場が当たり前の環境でした。
その中で私はダントツ戦績が無く、
特に中1中2の時はまるで勝てず
伸び悩みました。
さらに、その時の私は
思春期の影響もあってか
貧血と喘息に
ひどく悩まされました。
貧血は5分立っているだけで
視界にモヤがかかるし、
喘息は激しい練習の時に
呼吸困難になるくらいでした。
これを例えると
『ストローを咥えながら50メートル走』
をするくらいの苦しさです。
これ本当ですよ?笑
それでも病院に通いながら
過酷な練習で全国を目指して
試合に出続けました。
この頃は学校の友達と遊んだ記憶は
本当に何1つもないです。
それほど人生を掛けていたんです。
そんな苦しい時期を
なんとか自分なりに頑張りました。
そして中3の春、
年に1度しか無い予選を勝ち抜いて
なんとか全国への
切符を手にしました。
当時の私がいた県はテニスレベルが
日本で一番強い県でした。
本当にギリギリ
手にしたと言う感じでした。
そして名古屋で行われた
全国大会では
1回戦で栃木の選手に(64、64)
2回戦で神奈川の選手に(57、46)
で負けて敗者復活で
鹿児島の選手に負けてしまいました。
負けた後、コーチにとても怒られて
『1回勝っただけで満足するなよ!』
と言われ、2時間くらい
ランニングしたのを覚えています。
マラソン大会でも優勝(余談)
ここでも優勝の話に
なってしまうのですが、
私は足が本当に遅くて
小学生の時はテニスしていたのに
50人中37位という始末でした。
また、喘息の発作が途中で出てしまい
途中で棄権してしまうこともありました。
そんな貧弱では勝っていけないと思い、
吐くまで追い込んだ練習や
山ランを繰り返しやり込みました。
中学、高校では
驚異の成績を叩き出すことができました。
マラソン大会は
3学年同時(150人ほど)で
走るのですが、1年時4位。
2、3年と優勝してしまいました。
その時は一番周りが驚いていました。
『あのお前がどうしてっ!?』て
いう顔で見られていたのを鮮明に
覚えています。
ここから何が言いたいかというと
ただの自慢ではなくて
人っていくら弱くても
死ぬ気で努力すれば
100人に1人くらいの逸材には
誰だってなれると言う事です。
私はそれを証明して見せました。
今の人生においても
この経験はとても大きな
自信に繋がっています。
インターハイへ
なんとか中3で全国に行けた私は、
特待でスポーツ校に
進学することが出来ました。
というか、お金がなかったので
特待のみでしか
高校に行ってテニスは出来ない環境だった。
だから結果を出すしかなかった。
という方が
正しいかもしれません。
高校は隣の県だったので、
朝7時の電車で学校に→
16時に終わるとすぐに
学校を飛び出してテニスクラブへ→
17時から21時まで練習→
疲れ果てて23時に帰宅→
お風呂、宿題、ご飯、ガットを張って寝る。
と言う生活を週6日
3年間やり切りました。
中学の時と同様、
高1高2はなかなか全国までの
切符を手に入れられないまま
もがき苦しんでいました。
そして、あっという間に
高3の春がやって来てしまいました。
春には全国まで
繋がる試合が2つあります。
1つはジュニアの部門。
もう1つは高校の部門です。
ジュニアの部門は4月にありました。
結果はまさかの県予選1回戦負け
という最悪な結果でした。
大事な試合だと思いすぎて
とても力んでしまい、
パニックに陥ってしまっていたのです。
終わってみると試合の記憶が
ほとんどありませんでした。
そこから1週間ほど
うつ病になっていた気がします笑
人生の試合で1番後悔している
試合がこれですね。
そして2ヶ月後の
6月に控えたインターハイ予選に
今までのテニス人生を掛けて
死んでも勝つためにひたすら追い込みました。
県予選ドローは
32ドローのトーナメントで
ベスト4に入れれば
インハイへの切符が獲得できます。
予選には300人位いたので
相当タフな戦いです。
そして高3の6月
その日がついに訪れました。
とても暑い日で
35度はありました。
1日で3試合を炎天下で
行うという今では考えられない
タフな日程でした。
朝9時から1回戦が行われ、
1回戦2回戦共に
危なげなく勝ちました。
そしてインハイ出場を掛けた
準々決勝までコマを進めます。
その相手は当時、
県チャンピオンでした。
ギャラリーも大勢いましたし、
誰もが相手の勝ちを疑いませんでした。
私は失うものは
何もないと思いました。
とにかく攻める姿勢を貫きました。
ファーストセットは
64で私がとりました。
相手は少し受け身になっていて
かなり力んでいました。
試合中、『このままいけば勝てる!』
と思いました。
しかし、勝負はそんなに甘くは無かったです。
セカンドセットの
序盤のサービスゲームで
いきなり左脚の
ハムストリングがピクピクしました。
そうです、脚が攣ってしまったのです。
脚が攣ったまま
負荷をかけ続けると
そこからジワジワと全身に回ってくる
感覚に陥りました。
そして完全に両足が攣るまで
時間はかかりませんでした。
ものの2ゲーム程で
左脚が使い物に
ならなくなってしまいました、、、
正直、ファーストセットを
取っているとはいえ完全にピンチでした。
もう走れる状態ではなかったんです。
その時私は察しました、
このセットを最短で取らなければ
勝ちは無い。回復する見込みも無い。
そうなればやる事は1つ、
全部のボールを1球で
決めに行く事でした。
そんな事は無理と分かっていても
勝つにはやるしかありません。
その時は、私の中の最大の山場であり
人生をかけた大一番だったのですから。
ひたすら腕だけで打ち込みました。
すると私の球は、なぜか全て
思ったところに入るのです。
恐らくこれは、
窮地に立たせれた私の身体が
無我の境地だったのだと思います。
(よくあるランナーズハイの比では無い
無敵モードです笑)
しかし、それも長くは
続きませんでした。
42とリードした時、
フォアハンドを打った瞬間に
ラケットがすっ飛んで行きました。
腕に頼り過ぎていた為、
ボールを打った瞬間に
今度は手が攣ってしまったのです。
これが本当に治らず
掌がパーの状態から戻らないのです。
本当に終わったと思いました。
今度はラケットが握れないのですから。
それでもなんとかしなければ
負けてしまうと思い、
ラケットを左手に持ち替えて
ひたすら時間を稼ぎ
ひたすら右手を伸ばしました。
もう本当に身体の限界でした、
勝ちまであと8ポイントのところまで
来ているのに、ここで諦めたら
俺の今までテニスに捧げた時間は
なんだったのか、
墓まで後悔することになる!
と思いました。
もうどうなっても構うまいと
ラケットをなんとか握り
声を張り上げて
ボールを打ち込みました。
そこからの試合終了までの
記憶は本当にありません。
気付いたら相手が
ガッカリと崩れ落ちていて
それと同時に私もぶっ倒れました。
『もはやなんのバトルだよっ笑』と
思うかもしれませんが、
わりと本当の話です笑
結果は(64、62)というスコアでした。
あと8ポイントのところから
1ゲームも
落としていませんでした。
それと同時に、私は
インターハイへの切符を手にしました。
相手は自分に負けて
悔しかったと思います。
そして人生で初めて嬉し泣きをしました。
当時のコーチに結果報告の
電話をすぐしたのを覚えています。
(その後のインハイは2回戦で負けました笑)
そして大学テニスへ
なんとか、高3で
インハイに出場できた私は
テニスで大学に進学しました。
勉強も出来ないし、お金もないしで
テニスで結果を出して大学も
推薦でいくしかありませんでした。
そして、大学4年間1人暮らしをして
ひたすらテニス漬けの生活をしました。
体育会に入り
上下関係や集団生活を学びました。
現代では減りましたが
(水飲み禁止や先輩からの無茶振り、
やらかしたら坊主)みたいなものは
当時は当たり前で、
まだまだその風潮は残っていました。
まぁ、一言で言うと
色々とキツかったです笑
良かったことは監督に恵まれて
授業の合間やオフの日は
マンツーマンで指導していただき、
入学当初貧弱だった身体も
トレーニングの成果あってか
ひと回りほど大きくなりました。
大学時代の戦績はと言うと、
東日本選手権出場と関東学生
あと国体の代表くらいでしたね。
こんな感じで小2から大4まで
本当にテニスしかして来て
無いんです笑
就職して営業マンへ
本当にテニス畑でしか
生活してこなっかたので、
良く言うと1つのことを
努力できるのですが、
悪く言うとそれ以外の
普通の人が経験してくる過程を
すっ飛ばして大人になって
しまったと言えます。
就活な時期に人生を色々考えたのですが、
1回社会に出て
仕事をして社会勉強をした方が
良いなと思い、
色々な会社が見えて社会勉強にもなる、
色々な人とも繋がれると思い
営業マンになりました。
入社してから1年間は
新宿、渋谷、池袋を中心に法人を
毎日飛び込み50件して来ました。
私にとって発見や
気づきがあまりにも多くて楽しかったです。
周りは病んで辞める人もいましたが、、!
トータルで1万件は飛び込みましたね。
その経験から
自分の知識の無さや、
いかに無力であるか、
そして様々な働きかたがあることに
衝撃を受けました。
知らない事、気付いた事は
ひたすら調べて学び、行動しました。
その結果、自分の人生をもう一度見つめ直し
個人で稼ぎやりたいことをやる為に
今このブログを書くに至ります。
毎日新しいことに挑戦し
発見し、成長を感じるのが楽しいんです。
テニスと営業で得た経験を
発信し1人でも多くの方と繋がり、
将来は日本に一つだけの
『ハイブリッドスクール』を立ち上げたい
そう思っています。
これからは自分で情報を発信し、
自分のファンを作り
ビジネスを個人で作っていく時代。
会社に依存するだけの人生は卒業です。
まずは色々な実力を
つけるために日々行動しています。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました😊
🎾PS🎾
テニスしかやってこなかった私が、
知識・経験・人脈すべて0の状態から、
脱サラしビジネスで世界を目指す
そんなマインドを凝縮した
ゆうの【公式LINE】で
さらに発信しています!!
現在50名以上の
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それではまたっ!
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